息子が買ってきた漫画本を何となく読んでいたら、あるページを見て胸が熱くなりました。
あれは昭和最後の秋……
若気の至りで岩手をとびだした自分は、当事上野までしか乗り入れてなかった新幹線を降りた時に現金は四百円しか持っていませんでした。
スポーツバッグに着替えだけを持って、それでもきっと何とかなるだろうと21歳の胸にさほどの不安はなかったのです。
やがて〃手配師〃と言われる連中に声を掛けられて、いわゆる蛸部屋に突っ込まれそこから仕事現場に派遣される日々になりました。
その時……
横浜海洋博のパビリオンの建設に携わっており、まさしくこの絵のガリバーを造っていたのです。
気の荒い男達の中で少しのミスでもすれば怒鳴られ蹴られ小突かれながら日当の多くをピンハネされる生活でしたが、それでも聞けば仕事を教えてくれる人もいたし食事も与えて貰ったし寝るところもあってそれなりに快適な生活でした。
この三井東芝館ガリバーでの我々の役割はその骨組みを組み立てることで、それが終わった段階で完成を見ずにその蛸部屋も逃げ出して岐阜県の先輩のところに身を寄せたのでした。
明けて平成になった春に、週刊紙でこのパビリオンが人気第一位になった記事を見つけた時は込み上げるものがありました。
今でも桜木町の駅から見える観覧車を見ると「ボコボコに殴られて鼻血をタオルで押さえながら、あの観覧車が組み立てられるのを見てたな」と、懐かしくなります……